桃の節句(ひな祭)の由来
ひな祭には桃の花や菜の花を飾る風習がありますが、3月3日だとどちらも少し早いのではないかと思う方も多いでしょう。
ひな祭は本来、季節と密接した行事だったのですが、明治5年に太陰暦から太陽暦に変わったため、1~2ヶ月のずれが生じたのです。
ひな祭は中国から伝わってきました。江戸時代までこの日は海や川に行く日で、「磯遊び」「浜下り」「川みそぎ」などと呼ばれていました。
旧暦の3月初めは農作業が始まる時期で、田に入る前に身も心も清めておこうということだったのです。
また、農閑期には山へ帰っているという「田の神」を迎えるため、山へも行きました。
みそぎのためとはいえ、海や山に行くのは人々にとって楽しみの1つでした。
一部の地方では、磯遊びの際、紙で折ったひな人形を海に流し、けがれを人形に託して流す「流し雛(ながしびな)」の習慣があり、今でも鳥取地方などに残っています。
また、ひな人形を持って小高い丘などに登り、座に座らせ土地の様子を見せる「雛の国見(ひなのくにみ)」という風習もあり、これがやがてひな壇へとつながっていったようです。
この他、ひな祭とは直接関係はありませんが、貴族の家の女の子の間に伝わる「ひいなあそび」というお人形さんごっこの習慣もあり、これらが結びついて、江戸時代初期に現在のひな祭の原型が生まれました。
現在のひな壇形式のひな祭が人々の間に広まった背景として、江戸時代の経済の豊かさが挙げられます。インフラ整備と大幅な減税で庶民の懐が暖かくなり、衣食住が豊かになりました。
そうした生活の変化や豊かさの中で、それまでは労働力とみなされていた女の子に関しても健康を願い、かわいがる余裕が出てきて町人の家でもひな祭には競っておひな様を飾るようになったのです。
こうしてひな祭の行事は明治以降も引き継がれ、人々の文化に深く浸透していき、現在へとつながるのです。
ちなみにひな祭につきもののひなあられは、もとはおひつのフタや底に残った米粒を干して炒ったもので、携帯食料として重宝したそうです。